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どこで死ぬのか

青空

自分が、あるいは家族が「どこで死ぬか」なんて考えたこともないし考えたくもないです。
特に現実的にご病気の方や入院中の近しい人が居たら、なおさら考えたくはありません。
「死」というものは避けては通れないものですが、忌み嫌らってしまうのは当然といえば当然のことです。

自身の経験上、嫌な事でも、「ああなったら、こうやって対応しよう。」と備えておくと、
意外にそういう事が起らなかったリしますので、
自分を含めた誰かが、ここで死んだら、、、と考えておくのも「嫌な事除け」として悪くないと思います。

さて、死ぬ場所ですが、
想像力を働かせれば働かすほど、場面が見えてきて、恐ろしくなります。
ところが、地球規模の壮大なレベルで、空? 地上? 地下? 海? そんな風に考えると逆に楽だったりします。
不思議なものですね。

日本には「畳の上で死ぬ」という言葉があるように、
自宅や病院のベッドで安らかに亡くなるというのが、万人の目指す理想的な死なのでしょうか。

病院であれば、ある意味流れ作業的に死亡診断書まで書いてもらえますが、
自宅となるといろいろ面倒なようです。
持病があってかかり付けの医療機関があって、往診してもらえるなら、そこで診断してもらえば
済みます。困るのは朝起きたら亡くなっていた場合。結局は警察のお世話になって、事件性が
無いか調べられるようです。

資産家だったりしたら、遺産を狙って、、、など疑われたら大変ですね。
もしご自身が「資産家」の認識があって、年齢的にも寿命に近づいているようなら、生前贈与したり、
遺言を書いておいたり、残された家族の負担にならないようにしておくのも良いかもしれません。

死とは

人間の「死」とは、なんでしょうか?

まずは生物としての死。
病院で「死亡」として判断されるのは、自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔が開く、
という三兆候で判断するそうです。

最近では医療技術の発達で、脳が心肺を制御できない状態でも、
呼吸や血液の循環が保たれることから、「脳死」という状態もでてきましたが、
脳死の考え方は、国や宗教的背景で解釈も違うようです。
日本では、臓器提供する場合を除き、法律上、脳死は個体死ではないという扱いのようです。

今現在、自分は未だ死んだ事がありません。
臨死体験というものもありませんので、その時を想像することは難しいです。
いわゆるお迎えが来て、三途の川を渡って、という聞いた話から想像するしかありません。

人間は機械ではないので、スイッチを切った直後、真っ暗で何も無い状態には
ならない気はしてます。
徐々に「何か」が減って死亡に向かっている間に、走馬燈現象だったり、お迎えだったりの映像が、
まるで映画のエンドロールのように流れているのかもしれません。

人生良いことばかりではないでしょうが、
最後にわりと良い走馬燈映像が見られるように、
あるいは誰かの走馬燈映像に自分が笑顔で出演できるように生きたいな、
と思う今日この頃です。

あと、「社会的な死」というのもありますね。
社会の中で一定の貢献や活躍をして、地位もあるのに、、、
事件や事故を起こしてしまって、、、
という話も報道で目にします。絶対に自分はxxしないと思っていても
何か切っ掛けで事件を起こしてしまう。という事も無いとは言えない。怖いですね。

ただ、社会的な死の後、時間をかけて復活した方もいるでしょう。
そういう方々は温かい目で見てあげたいですね。

生きている皆さんへ

もし近親者の誰かが亡くなったら、どうします?
そんなこと考えたことも無い。想像すること自体忌むべき事だ。とお叱りを受けるかもしれません。
たとえ病院のベッドの上で危篤状態という状況で、覚悟はできていても、

回復して!目を開けて!
そんな風に祈っているはずです。

でも、いつかは死んでしまいます。

誰かが一生を終えると、残された生きている者は、新たな第一歩がスタートします。
悲しみに暮れる間もなく、次々にやらねばならないことが出てきます。
不安は当然あるでしょう、今まで近くに居た人が居なくなってしまったのだから。
でも立ち止まってはいられません。